学校現場に長く身を置いていると、時代とともに保護者の学校への関わり方が変わってきたことを感じます。
もちろん、我が子を心配する気持ちは当然です。
「学校で嫌な思いをしていないだろうか」
「先生にきちんと見てもらえているだろうか」
「友達とのトラブルに巻き込まれていないだろうか」
親であれば、子どものことを心配するのは当たり前です。
しかし、最近、少し気になるのは、「我が子を守る」という思いが強くなりすぎて、子ども自身が困難を乗り越える機会まで、親が先回りして取り除いてしまうケースが増えているように感じることです。
もちろん、すべての保護者がそうだという話ではありません。
むしろ、多くの保護者は学校と協力しながら子どもの成長を願っています。
問題なのは、「子どもが不利にならないこと」を最優先するあまり、教育そのものの意味が見えなくなってしまうことです。
「我が子が悪者にならないように」
以前、学校でいじめに関わる問題が起きたことがありました。
学校として事実関係を確認し、関係した子どもたちに話を聞き、そのうえで、いじめをした側の子どもに対して指導を行いました。
当然のことです。
誰かを傷つける行為があれば、学校は見過ごすわけにはいきません。
ところが、その指導について保護者から、
「うちの子ばかり指導されるのはおかしい」
というクレームが入ることがあります。
さらに、
「ほかの子もやっているじゃないですか」
「どうしてうちの子だけなんですか」
「そもそも先生の指導の仕方が悪い」
と、学校側への批判にまで発展することがあります。
もちろん、学校側にも説明責任があります。
事実確認が不十分だったり、指導が一方的だったりすれば、保護者が疑問を持つのは当然でしょう。
しかし、もし事実として我が子が誰かを傷つけ、その行為について学校が指導しているのであれば、
「ほかの子もやっている」
ということは、その行為を正当化する理由にはなりません。
教育の場で大切なのは、
「自分だけが不利にならないこと」ではなく、「自分の行動を振り返り、間違いを認め、次にどうすればよいかを考えること」
ではないでしょうか。
「ほかの子もやっている」は免罪符なのか
子ども同士のトラブルでは、よく「でも、○○さんもやっています」という話が出てきます。
子どもなら、それはある意味で自然な反応です。
自分だけが叱られれば、「どうして自分だけ?」と思うでしょう。
だからこそ、そこに教育が必要なのだと思います。
「相手もやったから、自分もやっていい」
ではなく、
「相手が悪いことをしたとしても、自分のしたことまで正しくなるわけではない」
と教える。
これは、学校だけでなく家庭でも伝えていかなければならないことではないでしょうか。
ところが、子どもが困らないように、傷つかないように、叱られないようにと、親がすべての場面で先回りしてしまう。
すると、子どもは「自分の行動の結果を自分で受け止める」という経験をする機会を失ってしまいます。
教育は「失敗させないこと」ではない
私は、教育とは「子どもが失敗しないようにすること」ではないと思っています。
むしろ、子どもが小さな失敗を経験し、その失敗から学び、次はどうすればいいのかを考えられるようにすることこそ、教育の大切な役割ではないでしょうか。
友達とケンカをする。
先生に注意される。
自分の言葉で誰かを傷つけてしまう。
努力したけれど、思うような結果が出ない。
そうした経験は、子どもにとって決して無駄ではありません。
もちろん、いじめや暴力など、放置してはいけない問題については、大人がしっかり介入する必要があります。
「子ども同士のことだから」と放置するのも間違いです。
しかし、問題行動に対して適切な指導をすることと、子どもを傷つけないように何でも取り除いてあげることは、同じではありません。
子どもを守ることと、子どもを甘やかすことの間には、大きな違いがあります。
「守る」と「育てる」は同じではない
親としては、我が子が叱られている姿を見るのはつらいものです。
我が子が学校で不利な立場になることも避けたいでしょう。
だからこそ、学校に電話をして、「どうしてうちの子だけ」と言いたくなる気持ちも理解できます。
しかし、そこで一度立ち止まって考えてほしいのです。
「今、我が子を守ることが、本当に我が子のためになっているのだろうか」
と。
目の前の不利益を取り除くことは、短期的には子どもを助けるかもしれません。
しかし長い人生を考えたとき、自分の間違いを認められない、自分に都合の悪いことがあると誰かのせいにする、注意されると「相手が悪い」と考えてしまう。
そんな大人になってしまったら、本人が一番苦労することになります。
社会に出れば、親がすべての問題を解決してくれるわけではありません。
間違えば注意されます。
努力しても結果が出ないことがあります。
自分の思い通りにならないこともあります。
人間関係で傷つくこともあります。
そのたびに誰かが先回りして助けてくれるわけではありません。
だからこそ、子どものうちに「失敗したらどうするか」「注意されたらどう受け止めるか」「相手に迷惑をかけたらどう謝るか」を学ぶ必要があるのです。
学校も、もっと説明しなければならない
一方で、これは保護者だけの問題ではありません。
学校側にも課題があります。
「指導しました」だけでは、保護者は納得できないでしょう。
なぜ指導したのか。
何が問題だったのか。
子どもに何を考えてほしいのか。
今後、同じことを繰り返さないために何をするのか。
学校が丁寧に説明することは必要です。
教師の感情で叱るのではなく、子どもの成長につながる指導をする。
そして、その指導の目的を保護者にも理解してもらう。
そこまで含めて教育なのだと思います。
保護者と学校が「子どもを守る」という同じ目的を持ちながら、その方法について対話することが大切です。
子どもの味方になるとは
「子どもの味方になる」という言葉があります。
私は、この言葉を大切にしてほしいと思います。
ただし、「子どもの言うことを何でも信じ、子どもの不利益をすべて取り除くこと」が、子どもの味方になることではありません。
ときには、
「それはあなたが悪かったんじゃない?」
と言うことも、親として大切な役割ではないでしょうか。
子どもが泣いて帰ってきたら、まず話を聞く。
つらかった気持ちを受け止める。
そのうえで、
「あなたはどうしたの?」
「相手はどう感じたと思う?」
「次はどうしたらいいと思う?」
と一緒に考える。
それこそが、子どもの成長を支える「守り方」なのだと思います。
教育とは、子どもを「困らない人」にすることではない
教育とは、子どもを「困らない人」にすることではありません。
困ったときに、自分で考え、立ち直り、前に進める人に育てること。
それが教育の大きな役割なのではないでしょうか。
我が子が不利にならないように、親がすべての障害を取り除く。
我が子が叱られないように、学校に抗議する。
我が子が失敗しないように、先回りして問題を解決する。
それは一見すると「子どものため」に見えます。
しかし、子どもが本当に必要としているのは、何でも代わりに解決してくれる大人ではありません。
自分で考え、自分で判断し、自分の行動に責任を持てるようになるために支えてくれる大人です。
親も教師も、子どもの人生を代わりに生きることはできません。
だからこそ、「守る」だけではなく「育てる」ことを考えたい。
子どもが失敗したとき、親がすぐに前に出るのではなく、まず子ども自身に考えさせてみる。
子どもが注意されたとき、「なぜ注意されたのか」を一緒に考えてみる。
そして、間違いを認めたときには、それを責めるのではなく、「自分の間違いを認められたこと」を評価する。
それが、子どもを本当の意味で守ることなのではないでしょうか。
元教員として学校現場を振り返ると、今あらためて思います。
教育とは、子どもの前からすべての壁を取り除くことではない。
子どもがいつか自分の力で壁を乗り越えられるように、必要なときに手を差し伸べながら、見守ること。
親も教師も、そのことを忘れてはいけないのだと思います。

