学校現場で働いていた頃、ずっと気になっていたことがあります。
それは、「勤務時間の開始時刻」と「子どもたちへの教育活動の開始時刻」が同じになっているという問題です。
たとえば、勤務時間が「8時15分から」と決められている学校があるとします。
ところが、8時15分になると、教室では「朝読書」が始まります。
生徒たちは教室に入り、席について、本を開く。
先生はその場にいて、生徒たちの様子を見守る。
つまり、8時15分になった瞬間には、すでに教育活動がスタートしているわけです。
では、先生は何時に教室へ行けばいいのでしょうか。
8時15分になってから教室へ向かうのでしょうか。
現実には、なかなかそうはいきません。
生徒たちが教室に入ってくる前に、教室の様子を確認する。
黒板に必要なことを書いておく。
教材を準備する。
提出物を確認する。
場合によっては、前日のうちに対応できなかった生徒への連絡事項を確認する。
そして何より、生徒を迎える準備をしておく。
そう考えると、8時15分から朝読書を始めるためには、教師は8時15分より前に職場に来て、教室に向かう必要が出てきます。
しかし、その時間は勤務時間として設定されていない。
ここに、大きな矛盾があります。
「たった10分」では済まない問題
「そんなの、10分くらい早く来ればいいじゃないか」
そう思う人もいるかもしれません。
実際、学校現場では、こうした感覚が長い間まかり通ってきたように思います。
「みんな早く来ている」
「生徒が来る前に準備するのは当然」
「教師なんだから、それくらいはやるものだ」
そんな空気です。
しかし、問題は「10分」という数字だけではありません。
10分早く来ることが毎日続けば、1週間で50分。
1か月、1年間と積み重なれば、かなりの時間になります。
しかも、朝の10分だけの話ではありません。
放課後にも仕事があります。
授業の準備、教材研究、成績処理、保護者への連絡、会議、部活動、生徒指導、校務分掌……。
一つ一つは「少しの時間」に見えても、それが毎日積み重なっていく。
学校現場の長時間勤務は、こうした「少しずつの時間」が積み重なって生まれている面もあるのではないでしょうか。
「勤務時間前だから仕事ではない」わけではない
ここで、もう一つ考えたいことがあります。
朝、教室に行って生徒を迎える。
生徒の様子を確認する。
朝読書がきちんと行われているか見守る。
必要があれば生徒に声をかける。
これは、単なる「出勤前の準備」なのでしょうか。
私は、そうは思いません。
明らかに学校教育の一部です。
生徒を見守り、指導し、安全を確認する。
教師としての職務そのものです。
だからこそ、
「8時15分から勤務です。でも8時15分には教育活動が始まります」
という状態には、どうしても違和感があります。
教育活動を始めるために必要な準備や、生徒を迎えるための時間も含めて、勤務時間を考えるべきではないでしょうか。
「朝読書」は良い活動だからこそ、きちんと考えたい
もちろん、朝読書そのものを否定したいわけではありません。
朝の時間に静かに本を読むことには、さまざまな教育的な意味があります。
一日の始まりに落ち着いた時間をつくる。
読書の習慣を身につける。
教室全体を静かな雰囲気にする。
こうした取り組みを大切にしている学校もあるでしょう。
だからこそ、私は思います。
教育的に意味のある活動なら、その活動を支える教員の時間も、教育活動を支えるための大切な時間として扱うべきではないか。
「朝読書は8時15分からです。でも先生はその前に来てください」
ではなく、
「朝読書を8時15分から実施するなら、その時間に間に合うように勤務時間を設定する」
あるいは、
「勤務時間が8時15分からなら、教育活動の開始時刻をそれに合わせる」
という発想が必要なのではないでしょうか。
「みんなやっている」が、一番怖い
学校現場で怖いのは、こうしたことが特別な問題として認識されなくなってしまうことです。
「昔からこうだから」
「前の先生もやっていたから」
「生徒のためだから」
「みんな早く来ているから」
そうやって、一つ一つの慣習が当たり前になっていく。
そして、いつの間にか、
「勤務時間より前に来ること」が教師として当然
という雰囲気ができてしまう。
でも、「みんなやっている」ことと、「それが適切である」ことは別の話です。
教師にも生活があります。
家族との時間があります。
通勤時間があります。
睡眠時間があります。
仕事と生活を両立させる必要があります。
「教育のため」という言葉ですべてを正当化してしまえば、教師の時間はいくらでも学校のために差し出すことができてしまいます。
それでは、持続可能な学校にはなりません。
「生徒のため」と「教師の労働環境」は対立しない
学校の勤務時間について話をすると、
「教師の働き方を優先したら、生徒への教育が手薄になるのではないか」
という意見が出ることがあります。
しかし、本来は対立させる必要はないと思います。
教師が余裕を持って働くことは、教育の質にも関係します。
朝から慌ただしく職員室に入り、急いで教室へ向かい、何とか生徒を迎える。
放課後は仕事が終わらず、帰宅する時間も遅くなる。
そんな状態が続けば、教師自身の心身にも負担がかかります。
そして、その負担は最終的には教育活動にも影響します。
だからこそ、
「教師がきちんと休めること」と「生徒により良い教育を提供すること」は、同じ方向を向いている
と考えたいのです。
では、どうすればいいのか
まず必要なのは、学校の一日のスケジュールを見直すことではないでしょうか。
「勤務開始は8時15分なのに、8時15分から朝読書」
という設定そのものを、一度立ち止まって考えてみる。
たとえば、勤務開始時刻を教育活動の開始に必要な時間を考慮して設定する。
あるいは、朝読書の開始時刻を勤務時間に合わせて変更する。
さらに、教師が生徒を迎えるために必要な準備時間を、正式な勤務時間の中に組み込む。
こうした方法が考えられます。
大切なのは、
「教師が自主的に早く来れば解決する」という考え方から、「学校の仕組みとして時間を設計する」という考え方へ変えること
だと思います。
「数分だから」ではなく、「数分だからこそ」
私は元教員として、学校現場で働く先生方が、子どもたちのために本当に一生懸命働いていることを知っています。
だからこそ、言いたいのです。
「たった10分だからいいじゃないか」
ではありません。
「たった10分」だからこそ、見直せるのではないでしょうか。
一人ひとりが善意で10分早く来るのではなく、学校全体の仕組みとして必要な時間を確保する。
そうすれば、教師個人の犠牲や善意に頼らなくても、教育活動を続けることができます。
教育は、教師の自己犠牲によって成り立つものではないはずです。
元教員として、今の先生たちに伝えたいこと
私は学校を離れた今だからこそ、以前は「仕方がない」と思っていたことを、少し距離を置いて考えることができます。
当時は、
「これくらい普通」
「どこの学校でも同じ」
「教師なら当然」
と思っていました。
でも、本当にそうなのでしょうか。
勤務時間が8時15分からなら、8時15分より前に行われる仕事について、きちんと考える。
教育活動が8時15分から始まるなら、その教育活動を担う教師の勤務時間も、それに合わせて考える。
そんな当たり前の学校になってほしいと思います。
学校は、子どもたちのための場所です。
同時に、そこで働く教師たちの生活も大切にされる場所であってほしい。
「生徒のためなら、教師は早く来て当然」という考え方から、そろそろ一歩進んでもいいのではないでしょうか。
8時15分から勤務なら、8時15分から仕事を始められる。
その当たり前を実現することは、決して教師が楽をすることではありません。
教育を、教師個人の善意や無償の時間に依存しない仕組みに変えていくことです。
「朝読書」という一つの教育活動をきっかけに、学校の時間の使い方そのものを見直してみる。
それは、教師の働き方を守るだけでなく、これからの学校教育を持続させるためにも必要なことなのではないでしょうか。

